コブラのまあそういわれるとそうなんだがこりゃまいったなぁ!の画像がこんなにも ..


名目上は、麻薬事件における本社との連携捜査であり、確かに聞こえは良い。しかし実際は本社が持つべき案件、もっと言えば本社はおろか、金熊のこぼしたとおり警視庁が抱えるべき事件のとばっちり捜査であった。もっともっと正確に言うならば、これは捜査でもない。
手狭な割に十階建と、縦長い造りのショッピングビル。その九階にあるカフェレストラン「赤りんご」、その窓側カウンター席からちょうど、狩野の事務所ビルの出入りが一望できる。小型の望遠鏡を使えば限定されているとは言え、いくつかの室内も監視することができた。
小雪はかれこれここで三日間、タウン誌を広げて、この『秋の新作スイーツ大特集!あつまれ、マロン、メープル、むらさきいも!』のページを眺めている。マロン、メープルまで横文字できておいて何故最終的に純和風の『むらさきいも』で締めくくるのか気になって仕方が無い。それでも、三日同じページを眺め続ければその違和感もどうでも良いものになりさがっていた。
不躾に小雪の隣の椅子がひかれた。そこにはつい数分前まで荒木が頬づえをついて座っていたのだが、今、大あくびと共に腰をおろしたのは京だ。
「いつまで続けりゃいいのかね」
開口一番これである。やる気は皆無だ、椅子にこれみよがしに浅く腰かけて、ずぶずぶと斜めに沈んでいく。
「見る?」
小雪が指さしたのは例のスイーツ特集。流石の京もこれには苦笑しか返せない。
「付箋なんかつけちゃって」
「そうじゃなくて。今日分のリスト。昨日よりは出入りが多いみたい」
雑誌の下にB5のペらいち用紙が敷かれていた。良く見れば、スイーツ特集の前のページには狩野製薬の重役たちの顔写真が挟みこまれている。京の目が、即座に何かあり得ないものでも目にしたかのように訝しげに変わった。何か言いたげに小雪の顔をしばらく凝視した後、結局何も言わずにうなじをさすった。
京は少し困ったとき、よくこの仕草で自分を誤魔化す。今度は小雪が、観察対象のへちまでも覗きこむように上目遣いに見やった。
「なんか……未だかつてない熱い視線を感じるんだけど」
「気のせいよ。それより何か頼んだら? 一日一杯までは経費で落とせるって」
「それも何て言うか、おかしな話だよな。一日中居座るのに一杯までって」
言いながら軽く片手を挙げると、ほとんどなじみになりつつあるアルバイトの女性がすぐに駆け寄って来た。
「おねーさん、俺、今日コレ。この『赤りんご特製赤くないりんご5種の生しぼりジュース』」
アルバイトの女性は快く返事をすると、「生しぼりおひとつ」と端的に復唱して踵を返した。カフェあるあるなのだろうか、客に長々しい(時にはこっぱずかしい)商品名を言わせる割には店内部では適当な略称が定められている、あのパターンだ。京は全く以て気に留めてもいないが、小雪は明日注文するつもりでいたそのジュースのことは「生しぼり」で通じることを学習できたことに密かに礼を言った。
「こうしてるとさー。仕事の合間に抜け出してランチに来てる、社内恋愛カップルってかんじ?」
「え? ううん? 全然?」
小雪は笑顔全開で、全く動じることもなく全力でかぶりを振った。切り返しの早さといい切り捨て感といい斬新である。などと感心している場合ではない。思い返してみれば、この三日間、こうして小雪の隣を独占している状況下でまともに会話が弾んでいないではないか。おかしい、おかしすぎる。社員旅行以降、二人の距離は劇的に縮まっていたはずだ。
(……テレカクシ!)
すぐに単純明快、腹落ちする結論に至った。なんだ、そうか。それなら仕方ない。もう少しこの状況を楽しむくらいの余裕を持てということだろう。神は意外にまどろっこしい試練を与えるものだ。
青ざめたり目を見開いたり、最終的に極上に気持ち悪いふにゃふにゃした笑みを浮かべる京を、小雪は言うまでもなく冷ややかな目で遠巻きに見ていた。
その遠い視線が、カウンターの一番端の席の男を捉える。小雪がここに座り始めたときから既に居座っている若い男だ。明るく色を抜いた髪は肩の長さまで適当に伸ばされている。小雪と同じくらいか、それ以上に長いかもしれない。だから何だと言われればそれまでなのだが、その男の様子が少しだけ気になった。スマートフォンの液晶をタップする、その指圧が必要以上に高い。コツコツという音がこちらの席まで届くほどだった。
「なんで出ない……! くそっ」
何度か舌打ちをする。それに気づいて頭がお花畑モードだった京も、何気なく視線を向けた。
「遅い、遅い、遅い……! なんでなんだよ、ちくしょう」
タップ、機器本体を耳もとへ、舌打ち、タップ、少し前からこの一連の流れがループしている。これにたった今リズム隊が加わった。すなわち、超高速貧乏ゆすりである。
京はできるだけ無表情を保ったまま、顔の向きを再び窓の外へ戻した。小雪にも暗にそうするように促す。障らぬ神に何とやらだ、最善の選択はこのまま無我の境地で「赤りんご特製赤くないりんご5種の生しぼりジュース」の到着を待つことであろう。
「あの人」
小雪が話を振ろうとするのを止めるべく、京は小刻みにかぶりを振った。それをさっぱり無視して小雪は京の袖を軽く引く。彼女の視線は、猛烈タッピング男の方ではなく、自分たちの眼前にある一枚張りのガラスへ向けられていた。
「あの人、毎日のように居るのよね」
ガラスには、店内の様子が隅から隅まで反射している。入り口付近で会計を済ませようとしている若いカップル、それぞれにブランドのショッピングバックを下げておしゃべりに夢中になっている女性三人組、営業途中に寄ったのだろうかネクタイをゆるめながら注文を述べる男性、そして入り口から入って角の席に座っているロイド型サングラスをかけた長身の男。
誰のことを言っているのか、聞く必要はなかった。小雪が言うのは十中八九この男のことだろう。位置的には、京と小雪の座る窓際カウンター席のちょうど真後ろにあたる。京は相手に悟られないように意図的に視線を泳がせながらも、神経を研ぎ澄ませた。
小雪が言いたいのは形式的なそれではない。この男が足しげく通うには、この「赤りんご」というカフェはいささか不似合いだ。それは自分たちにも言えたことだったが、彼らには目的がある。同じ原理で言えば、このロイド型サングラスの男にも何か理由がありそうだ。賑わう店内でたった独り、メニューの中からは探さなければ見当たらないようなブラックコーヒーを注文して、窓を凝視する理由が。
(窓──……)
ガラスには、店内の様子が隅から隅まで反射している。会計を済ませて店員に見送られるカップル、パフェをつつきながらモバイルいじりに没頭する女性三人組、食事の前に既に一服を済ませようと灰皿を引き寄せる営業マン、そして訝しげな表情を浮かべて窓ガラスを覗き込むスプラウトセイバーズの若い男と女。
窓ガラスの中の世界で視線が合った。サングラスの奥で、その「目」は確かに京を捉えていた。
ガタッ! ──和みと癒しの空間に、椅子を蹴る音はひどく異質なものとして響き渡った。京ではない。確かに彼はそうしようと腰を浮かせていたところだったが、それよりも早く、例のカウンター隅の男が立ち上がっていた。談笑を交わしていた客の注意を一気にひく。
「うわああああああ! なんでだよぉぉぉ! 出ろよ! 出ろぉ!」
スマートフォンを握りしめたままの拳をカウンターに打ち付ける。凄まじいまでのタップだ、などと悠長に構えている場合ではなさそうだ。
「頭がイテェっ! 嫌ダぁぁ、イやだァ! アアアァァァァアア!」
男は奇声を発しながら、舞台役者のように頭を抱えて体ごと左右に振りまわした。かと思えば一昔前の芸術家のように頭髪を掻きむしりだす。彼の発する声は、悲鳴というよりもはや断末魔に近い。それが周囲に与えるのはもはや緊迫感ではなく、ある種の好奇心だった。
「ウワアアアア、痛えええ! 痛ぇよおおお!」
男の一人舞台は早くもクライマックスを迎えていた。眼球を、躊躇なく両手で押さえこむ。取り出そうとでもいうのか、中指の第一関節がすっぽり埋まるほどに瞼の隙間から指を食いこませていた。
「き……きゃあああああ!」
「うわー! 何だ、救急車呼べ! 救急車!」
ここでようやく真っ当な悲鳴が上がる。皆、我先にと席を立ち、苦しみもがく男と距離を取った。そんな中で、京と小雪だけが真逆の行動をとる。床にうずくまって絶叫し続ける男に駆け寄った。
「おい、あんた……! 小雪! 両手押さえてっ」
小雪は返事の前に迅速に行動に移してくれる。しかし小雪の全体重をかけても男の動きを完全に封じることはできず、結局京が男に馬乗りになる形で無理やり床に押さえつけるしかなかった。
「京っ、ちょっと、何するつもり」
「手、離すなよ……! は~い! ちょっとお兄さん、おめめ見せてね~!」
口調は子どもをあやすようだが、京はほとんど全力で男の首をねじってその眼球を覗き込んだ。白眼は血走った上、涙とも血ともつかない赤色の液体にうずもれている。まるで焦点の定まらない黒眼──アイ細胞は、時折生き物のように赤い海の中でうごめいた。その場所を棲み処に無尽蔵に増えるアメーバのようでもあったし、息を殺して夜を待つ吸血蝙蝠のようでもあった。
京は息を呑んだ。ひとつだけ確かなことがある。
「小雪、カンパニーに連絡してシステム課の誰か応援に呼んで。こいつ、このままじゃやばいぞ」
「ブレイクしてるのよね……?」
「“ただの”ブレイクならいいけどな」
京はアイ細胞の確認を止め、男を抑え込むことに集中することにした。と、既に男に暴れまわる意思も体力も残っていないことに気づく。小雪に目で合図して、このまま三人ねじりパン状態から離脱するように指示した。
小雪は抜け出してすぐ、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出すと短縮ボタンを押した。遠巻きながらも分厚い壁となった野次馬連中に律儀に頭を下げながら店の隅に移動した。
「イテェよぉ……死にたくない……! シニタクナイよォオ!」
「心配すんな、すぐアイ細胞のスペシャリストが来るから。姿勢を楽にして目は閉じてろ」
ともすれば男は自らのアイをえぐり出そうとする。それを阻止すべく、両手だけはスーツの上着で縛らせてもらった。
(異常……だよな、この濁り方は)
考えられることはいくつかあったが、どうしたって件のドラッグの存在を勘ぐらずにはいられない。もしこれが、ブレイクを誘発するクスリの仕業だとしたら、事態は京たちが考えているよりも深刻かつ急速に展開しているのではなかろうか。そんなことを思っていると、ふと悪寒が走った。視線を上げて、小雪の姿を探した。
「何なに、ブレイクスプラウトってやつ?」
「うわー、マジだ。初めてみた。なんか、凄くない? ドラマみたい」
野次馬が増殖している。店内の客だけではない、このショッピングビルの上から下から、興味本位で集まった連中が人垣を作っていた。
「見て。動画撮ったー」
「あの人ってさー、あれ? セイバーズっての?」
「なんか結構やばくないかぁ」
「バグってるよな、完全に」
いろいろな人間の様々な声が頭上を飛び交っていた。ほとんどが好奇の目で、ごく一部に悪意てんこもりの侮蔑の眼差しが混じる。
久しぶりの、とてつもない不快感だ。不幸中の幸いだったのは、取り残されたのが自分で小雪でなかった点である。これが逆だったらもうひと悶着平気で起こっていたに違いない。胸をなでおろしながら、京はできるだけ考察に集中するよう心掛けた。そうすることである程度の騒音はシャットアウトできる。
「救急車って呼んでんの?」
──そう言えば。
「さあー、さっき女の人が電話してたっぽいけど」
──あの、ロイド型サングラスの男。
「ブレイクってさぁ、結局治らないんでしょ」


反AI主張されても説得力がないと言われると、全然範囲の違う話なんだけどコブラさんのまあそういわれるとそうなんだがこりゃまいったなぁ!になる

翌朝の保安課は、いつもより幾分慌ただしかった。というのも、金熊が本社会議から持ち帰った事案を発表するとか何とかで、いつもより始業時間を早めたからである。午前7時、普段なら天気予報からの誕生月占いに全神経を投入している時間だ。
「なんだ浦島、そのしかめっ面は。今さら異議申し立ては聞かんぞ」
金熊が保安課の扉をくぐるなり、目敏く京の表情を注意する。高血圧の金熊には想像にも及ばないかもしれないが、大抵の二十代から三十代、いわゆる働き盛りというやつは揃いもそろって朝が弱い。不規則家業はなおのことだ。
「異議というか……どうしても気になることが」
京は金熊から視線を逸らすべく、小さく俯いた。その仕草がやはり金熊の目に留まる。デスクに使い古した皮の鞄を置きながら片眉を上げた。
「なんだ。手短に話せ」
「……今日の俺は、一体全体、全12ヶ月の中で何位相当の運気に当たるのかなって」
「よーし、みんな。アホはほっておいて手元の資料を見てくれー。今回のターゲットである狩野製薬の概要から説明するー」
保安課の各々が無言で資料の表紙をめくる。あんまりだ。誰ひとり冗談が通じない。この時点で本日の運勢ランキングが10位以下であることは明白である。こういう日こそお助けラッキーアイテムをチェックしておきたいというのに。
京も渋々資料をめくったのを視界の端に確認すると、金熊は仕切り直しとばかりに小さく嘆息した。
「以前ちらっと話した通りだ。本日よりしばらくは本社と各支社で連携して、この、狩野製薬の動向を監視することになる。具体的には管轄内にある事務所ビルと研究施設、だな。この期間は普段のバディに限らずローテーションを組んで監視班をまわしていく。メンバー割は最終頁にあるから、後で確認しといてくれ」
こういうとき、大抵の二十代から三十代、いわゆる働き盛りというやつは揃いもそろって早速最終頁を繰る。確認も何も回すメンバーはここにいる少人数だ。金熊のわざとらしい溜息も聞こえないふりで流して、京も半眼でメンバー割に目を通した。
感想はおそらく全員同じである。それにいち早く反応、というか反論したのが珍しくも荒木だった。
「いやいや……、課長。これだと通常業務はどう回していくんです。総動員、待機人員なし、これだと保安課が機能しないでしょう」
荒木の呆れ声に皆胸中で頷く。同時に自分の資料に不備がないことと何かの見間違いでないことも知る。監視のローテーションメンバーには金熊自身の名も記されていた。
荒木のもっともな批判を一身に浴びても、金熊は動じる様子を見せない。
「まさか……冗談でしょう」
「そのまさか、だ。通常業務はストップ。不足人員は生活課、システム課からも補充するように指示を出す。いいか、保安課全職員はこの案件の解決に最善を尽くすよう命令が下った。皆、そのように承知してくれ」
諦めたようにかぶりを振りながら、資料をもとの頁に戻す荒木。露骨な彼とは対照的に、京は小さく苦笑いをこぼしただけだった。
金熊は昔堅気の、少し古臭いタイプの人間だ。良く言えば情に厚すぎる。それだから冷徹冷酷に徹するには、あるいはそれを演じるには爪が甘いところがあった。今回もその不器用さが見え隠れしていて、京としては苦笑いで済ませるほかなかったのである。「最善を尽くしてくれ」ではなく、「尽くすよう命令が下った」ということは、それが金熊本人の意思ではなく本社の意向であることを暗ににおわせてしまっているではないか。
金熊も心底納得しているわけではない、それさえ分かれば十分だ。
「話を戻すぞ。狩野製薬にかかっているのは麻薬製造、売買の疑いだ。端的に言うとな。通常ならまるごと警視庁扱いのはずなんだが──次の頁をめくってくれ」
何故今回に限ってセイバーズが首をつっこむのか──それも全社をあげて──その理由は、製造・売買されているとされる麻薬の効能にあった。資料に目を通して、やはりいち早く荒木が特大の溜息で遺憾を顕わにした。
「は~……狩野って言ったらそこそこ大企業じゃねぇか。何でこうわざわざ危ない橋を全力疾走するかね」
「まぁでも、これなら本社が臨戦態勢に入るのも納得ですね。警察屋さんよりも先に“ホシ”を挙げないとセイバーズ全体の沽券にかかわる、と」
城戸が皮肉っぽく強調した言葉に、皆肩の力を抜いて思わず笑いをこぼした。
「そういうことだな……質問はあるか。内容に関して」
金熊の振りには、小雪が挙手をして応えた。
「このドラッグの効能、『スプラウトを意図的にブレイクさせる』ってどう解釈したらいいんですか? そこに何か、有益性があるってことでしょうか」
「あるだろうな、どういう団体にしろ組織にしろ反スプラウト派には。遺体売って、それをビジネスに変える連中がいるんだ。不思議じゃないだろ」
小雪の問いには京が答えた。それも若干食い気味に。
「それよりも。実際に被害が確認されて、その原因がこの新種のドラッグで、更にその売買ルートに狩野が絡んでるってとこまで判明してるのに、今さら俺たちが何を押さえればいいのかって方が疑問なんですが」
京の言い草は先刻の城戸よりも、更に嫌味と皮肉の利いたものだった。金熊の配布した資料には、その手の情報が一切記載されていない。被害状況、それに関する全ての詳細、ドラッグの頒布状況、それに関する全ての詳細、書かれていてよいはずの内容が何一つない。あるのは狩野製薬の企業パンフレットをコピーしたとしか思えない会社概要と重役の紹介だけだ。
「証拠だよ。……物的証拠」
金熊がひと際長い嘆息で疲労を顕わにした。これぞ「THE 板ばさみ」である。
「……ないんですか、ここまで詰めといて」
「そう、ない。だから全社で狩野の関連ビルを監視して、そこに胡散臭~い笑顔で載ってる上役たちと接触した者を本社へ報告する。以上、これが本日からの我々の業務!」
最終的にはやけくそに締めた。金熊は覚悟していた。絶対に、十中八九突っ込んでくる奴がいる。荒木か、京か、素直に聞いている素振りのシンか。
「し、証拠品の押収じゃないんですか……」
予想外というか、それを口に出したのは小雪だった。思わず金熊も言葉を詰まらせる。
「白姫くん、聞いとったかね。我々の業務は『狩野の上役と接触した者を、逐一、リストアップして、本社に報告する』以上だっ」
金熊は困ったとき、技巧に走らずごり押しする。つまり今、極上に困っている。これは察して見て見ぬふりをするのが優しさというものだ。銘銘に伸びをしながら席を立ち、重い足取りでローテーションの指定箇所に向かう準備を始めた。
京もうなじを掻きながら立つ。呆ける小雪の頭に軽く手を置いた。
「華々しいのは本社の精鋭陣が根こそぎ持ってくからねぇ。ま、俺たちは俺たちの業務をやろう。地味で退屈そうだけどな」
「浦島、聞えよがしに言うなっ」
歯ぐきをむき出しにして怒る金熊に、京はいつも通りの愛想笑いでへらへら頭を下げていた。
小雪は何故かその光景に、いくつかの違和感を覚えた。ざっと思い返しても、どの時点でも通常運転の京だ。それがやけに造られたもののような気がする。
彼は何を焦ってるんだろう──根拠もないのにそんな考えがよぎる。それはひどく、小雪を落ち着かない気分にさせた。

京の全身の毛穴から、一気に汗が噴き出した。好き勝手に談笑を始めた烏合の衆を睨みつける。彼らを戒めるためではない。そして今度は小雪の姿を探すためでもなかった。
京の視線の先に、その男は立っていた。野次馬に溶け込んでいるようで独り明らかに異質な空気を纏っている。見えるはずのないサングラスの奥の瞳が、またも京のアイを射抜くように見つめている気がした。
「京っ。柳下主任がすぐこっちに来てくれるって! シンくんもすぐ合流できるみた──」
小雪の声が聞こえた、気がした。今、それはどうでも良いことのひとつだった。京は立ち上がると同時に群衆に向かって猛突進した。どよめきだか、罵倒だとかがまた聞こえた気がするが、どこか遠いところで鳴っている雑音のようでもあった。小雪の声が、野次馬の罵声が、絶えず鳴っていたモバイルカメラのシャッター音やスプラウトのうめき声でさえ、今は全て後回しで構わない。
サングラスの男は薄く笑みを浮かべて、何ら慌てることもなくひっそりと店を後にした。
「ちょっと京!」
野次馬をかき分ける。入り口に辿り着くころには標的の姿が見えなくなっていた。魔法のように消えたわけではないのだから、このビル内のどこかには居るはずだ。そうであるならば選択肢はひとつである。京は迷うことなく非常階段へ続く鉄扉を押し開けた。ほとんど飛び降りるようにして階下へ下る。
アイナンバー、下一ケタは7。どんなに勉強嫌いでも忘れようのない数字だ。あの男がスプラウトかどうかすら現段階では不確定要素のはずなのに、京は確信を持って走っていた。サングラスの奥にはアイが、世界で一番濁りきったプリズムアイがあるはずだ。
「そして額に銃痕」
何故か頭の中に乙女の声で補足がなされた。昨夜と同じ、京の感情を諌めるような静かな声で。
非常口、最後の扉を開け放した。搬入口の横、おそらく違法駐車であろうショッピングビルの職員の車が所せましと縦列駐車してある。京は一歩踏み出して路地に出ると、悪あがきとばかりに再び周囲を見回した。360度、見渡してもあるのは鎖のように連なった車だけだ。
一日分をまとめたような疲労感が一気に京を襲う。大きく息をついた。今から九階分階段を駆け上がると思うと気が重い、踵を返してのろのろとエレベーターホールへ向かった。四角い箱が下ってくるのを待つ間、京はオータムセールのポスターに向かって懺悔するように頭から寄りかかった。
どこかで携帯電話の着信を知らせるバイブレーションの音がする。それが、自分の尻からだと気付くのに数秒を要した。スーツの上着を手枷代わりにブレイクスプラウトに巻きつけたとき、咄嗟に尻ポケットに突っ込んできたのだ。おもむろに引き抜いて蓋を弾き開ける。表示された名前に特大の溜息が洩れた。

たレンズを生えてた樹木に投げ込んでおいたんだが……まあ、破壊されただろうな ..

「そう……ですか。そんなところから監視を」
狩野製薬の藤和事務所ビル、喫煙ブースの中で眉間のしわをほぐしながら桜井は一本目の煙草に火をつけた。携帯電話を左手に持ち替えて、右手ではゆらゆらと煙を立ち昇らせる細い棒をつまむ。ブースはエントランスフロアの中央に設置され、ガラスの間仕切りで外界から隔離されているだけだ。従って何をしているか一目瞭然、悪いことは何もできない。但し、密談をするにはうってつけだった。
「それでは予定通り、本日の受け渡しは中止ということで宜しいですね。それとも、本日を含め当面、と言った方がいいのか」
灰皿に向けて一度、小気味よく灰を叩き落とす。綺麗なものだ。立派な分煙ブースを設置したものの、この数年で愛煙家は随分減った。
「他のお得意様ですか。そうだな……『先生』あたりは引き続き取引を続けることにします。通常の、医薬品のね。いきなり音沙汰なしじゃあ、いくらなんでも」
苦笑いのつもりが声が出た。ブースの外では、何も知らない歯車社員たちが何の面白味もない通常業務というやつに当たっている。昨日もそうだった。一週間前も、一か月前も、一年前もそうだった。そして一年前は自分もその中に溶けていた。
「専務、よろしいですか」
ブースの扉が開いたかと思うと、落ち着いた低いトーンの女の声がした。イエスもノーもなく、女はさっさとエナメルブラックのシガレットポーチからライターを取り出す。
「ちょうど一緒になったので……彼女にも伝えておきます。今後の接触はお互い慎重に参りましょう。それでは」
通話終了と同時に吸いさしを灰皿の縁に押しつけた。
「当面の間“ブルーム”の取引は一部凍結だ。警察に加えてスプラウトセイバーズまで動き出したらしい。……俺も、君もマークされてるとか」
「なるほど道理で視線を感じるはずですね。売買ルート生成の矢面に立ったんだから当然と言えば当然ですが。今のはウルフからの情報?」
「そうだ。……麻宮くん、君も警戒を怠るな。俺たちはタイミングを見計らって手を引く、今が引き際かどうかはもう少し見極める時間がいるがな」
桜井は女の返事を待たずして、ブースの扉を引き開けた。外界の澄み渡った空気が、一瞬だけ扉の隙間を通じてブースの中へ吸い込まれていった。
空気清浄機のおかげで、フロアには花粉もハウスダストも細菌も無い。とにかく不快を誘い健康を損なうものは片っ端から排除されている。桜井は小さく呼吸をし、小さく噎せた。自分が住むべきはこの潔癖な世界ではなく、白い煙の充満したあのブースの中である。そう思って、後ろ髪惹かれるように一瞬だけ肩越しに振り返った。

いつも通り、京は一人保安課の自分のデスクに居残っていた。いつも通り書類に埋もれて、いつも通り打つ気もないノートパソコンを開いたままにしている。そしてやはりこれもいつも通り、見るともなしに黒いアクリルファイルを広げていた。
「アイナンバーの下一ケタは7……プリズムアイ……」
「そして額に銃痕」
独り言のつもりで呟いたのに、予想だにしない横やりが入った。過剰に驚いて振り向く前に、乙女の端正な横顔がすぐ隣にあることに気付いた。結局それにも驚いて、二重に肝を冷やすことになった。
「びびらすなっ。性格悪ぃな」
「心外ねー。無駄な残業で電力を無駄遣いしてくれるブラック社員に、注意をしにきただけでしょ」
「そりゃ俺のことか」
「他に誰がいるのよ」
京は苦虫をつぶしながら壁にかかっている時計に目をやった。午後10時。確かにもうそろそろ帰宅すべきかもしれない。ここ最近は大きなセイブもなかったから、保安課内には誰も残っていなかった。小さく嘆息してノートパソコンをシャットダウンさせる。
「はいはい。帰りゃいいんでしょ、帰りますよ」
席を立ちながら、ファイルを所定の位置に立てかけた。
「こっちも……できるだけ手をつくす。今さら焦って、どうなるってものでもないでしょ」
京は一瞬目を点にして、それから居心地が悪そうに後ろ手に頭を掻いた。金熊と似たようなことを言う。それとも彼の差し金だろうか。思い直してすぐさまかぶりを振った。これはおそらく、乙女なりの気遣いなのだろう。
(もう充分助かってるけどな)
口には出さずにおいた。代わりとばかりに自分に言い聞かせる。
焦るな、集中を切らすな、平常心を保て、そして常にアンテナを張れ──何かのまじないのように最近は繰り返しこれを唱える。京が、スプラウトセイバーズに入社してから金熊に教わった心構えだ。唱えて、確認して、いつも通りの自分を保つ。
京は大あくびを漏らしながら、早くも廊下の電灯スイッチに手をかけた乙女の後を追った。

メールやLINE,Twitterの返信に使えるネタ画像!誰かを煽るレスにも使えるよ!!

着信は金熊の携帯電話からだった。命令に従い、小雪とシンを連れて帰社。「赤りんご」での一件をありのまま微細に報告すると、おそらくはこっぴどく説教される羽目になるだろう。ある程度は腹を決めて保安課の開けっぱなしのドアをくぐったはずだった。言いわけの手順と頭を下げるタイミングまで車の中でシュミレーションしていた。
それらが完全に無駄骨に終わったことも含め、京は戸惑いと苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「君か。『赤りんご』で大立ち回りをしてくれたのは」
金熊の席の前に、小柄でどこか神経質そうな男が立っていた。堀が深い割に、頬と唇が極端に薄い。加えて、やりすぎだろうとつっこみたくなるくらいの完全完璧なオールバックヘア。それらが相乗効果をもたらして、その男の第一印象を完膚なきまでに嫌なものに変えていた。
「えーと……、そちらは」
「質問に答えろ。『赤りんご』でBをセイブしたのは君か、と訊いている」
浮き出た。京の意思とは無関係に青筋が浮き出てしまった。素っ頓狂な声を上げなかったのは、この小柄な男の後方で金熊が青い顔をして何かしらの手旗信号を送ってきたからだ。手旗信号の意味するところは不明だが、いくつか理解できることはある。この男は、金熊よりも階級が上で、おそらくは本社の人間である。
「浦島、第二エリアを統括する宇崎保安部長だ。報告は後で聞くから、聞かれたことに簡潔に答えてくれ」
金熊の補足により、京の推察がおおよそ当たっていたことが判る。宇崎功(うざき いさお)の名前には覚えがあった。と言っても、異例のスピード出世により頻繁に人事通達にその名が上がっていたせいで頭の片隅に残っていただけに過ぎない。
「……私です。搬送はシステム課に任せてきたのでまだ到着していないはずですが、何か問題でも」
金熊が一度天を仰いで、より大ぶりに謎の手旗信号を繰り返す。反抗的な態度はやめろとでも言いたいのだろう。分かった分かった、それにしたってこの男の態度はあんまりではないのか。まずスーツのサイズが合っていないのが気になる。見たところワンサイズ下を買った方がいいと思われるのだが。
「何故あそこで、自分たちの身分が公になるような真似をした」
京の質問は悉くスルーされるようだ。引きつる口元を何とか制し、京は喉元まで出かかった言葉のいくつかを飲み込んだ。そして改めて、その質問の異様さに混乱をきたす。
「いや、何故って言われても」
「このセイブにより、セイバーズが網を張っていることが狩野側に知れてしまった。狩野の情報は全体的に遮断され、警察側からも非難を浴びている。これが君の言う“問題”というレベルでないことは分かるか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。現場の判断としては、間違ったことをしたつもりはありません。あれはどう見ても通常のブレイクじゃない、早急な対応が必要な状況でした」
「その正しいつもりの現場の判断とやらが、組織全体には最悪の結果しかもたらさなかった」
宇崎の周囲、半径5メートル程が凍てつくのが分かった。空気が重いとはこういうときのことを言うのだ。誰もが押し黙る。宇崎の言うことは、あるレベルでは揺るぎない正論だ。
「いいか、この案件、運び方次第でセイバーズの存在そのものが世に問われることになる。その重要性を君たちは正しく理解できていない。だから今回のようなその場しのぎの行動で全体の足を引っ張る」
「……ブレイクスプラウトは、ほっておけと」
「優先順位を転換しろと言っている」
京は記憶をまさぐった。つい今しがたの記憶だ、細部まで思い出せる。アイをえぐりださんばかりに押さえつけ、奇声をあげつづける長髪の男。その血と涙に埋もれながらうごめく、見たこともないほど異常なアイ。
(あの場のどれに優先順位をつけろって……?)
自嘲の笑みが漏れた。特に顔を逸らしたわけでもないし、宇崎は先刻から京のみを視界に入れているから、それはもろに宇崎の把握するところになった。
「君は、現場での判断に大層な自信があるようだが……では聞こう。先ほど上がってきた報告には、Bを懐柔している最中、君は何者かを追跡するような形で現場を放棄したとある。この意図は何だ」
京は目を剥いた。視界の隅では金熊が同じく目を剥いている、ということは彼はこの報告を受けていないということだ。宇崎に直接コンタクトをとれるような者は、保安課にはいない。だとすると、あの現場に本社の人間が紛れこんでいたのだろうか。考えても仕方ない、どのみちここまで含めて金熊には報告するつもりだった。
「それは、今回の件と直接関係ありません。別件の……いや、私の先走りです。申し訳ありません」
京は一拍置いて頭を下げた。
「で、あれば口応えしないで私の指示に従ってくれ。時間は限られている、一秒たりとも無駄にはできない」
頭を下げたままの京の横を通り過ぎて、宇崎は保安課を出る。廊下を挟んだ向かい、通常は応接として使用している(つまりほとんど使用していない)部屋を会議室兼宇崎のデスクとしてこしらえたようだ。後を追う形で金熊も廊下を出る、直前に京に渋い表情を晒した。
「……本社は本社で何かまた掴んだみたいでな。今後のうちの陣頭指揮は宇崎部長が執ることになった。お前は頼むからこれ以上悪目立ちしてくれるな、いいなっ。それと──」
「わーかってますって。後で報告します、もともとそのつもりでしたっ」
息を荒げる金熊をなだめすかして、その背中をぐいぐいと廊下に押し出した。半ば無理やりに金熊を見送り、面倒事はうまく片付いたかのように見えた。
にこやかに振った手、その腕を小雪に鷲掴みにされる。
「京、ちょっと」
できればここは、スーツの背だとか肘部分だとかをちょっと摘まむという行為に変更できないものだろうか。これではまるで痴漢の容疑者と勇敢な女刑事の取物ではないか。などと残念がっている間に、京はあれよあれよとエレベーター前まで連行された。展開としては、こういう強引なのも悪くはない。
「どーしたの小雪ちゃん。今日はやけに積極的……」
「赤りんごの。説明してよ、何、別件って」
金熊とは違ってこちらは手ごわそうだ。直球、それもかなりの剛速球をいきなり投げてきた。望み通りというか期待通りというか、小雪は上目遣いを決め込んでくれたが思っているのと随分違う。今の小雪は、視線だけで数人射殺せそうだ。
「怒ってる……?」
「怒ってない。説明してほしいだけ。あのとき誰を追ったの?」
(いや、怒ってるでしょ。明らかに)
京がサングラスの男を追った際、ブレイクスプラウトと小雪はその場に放置された。それにも関わらず、システム課や応援のシンが到着しても戻らない京を適当にフォローしてくれたのは彼女だ。そんな小雪に伝えたのは、金熊からの帰社命令だけ。
京は無意識に後頭部を掻いた。
「別件の……重要参考人に似た奴を見かけたんだよ。今回の件とは関係がない」
小雪は、京のその小さな仕草を見逃さなかった。彼はおそらく今、困っている。この場をどう切り抜けようか、つまりどう誤魔化そうかを悩んでいる。それが分かってしまうから、余計に腹立たしかった。
「……別件、って。あのときあの場に居た人物なら、関係ないとは言い切れないじゃない」
「関係ないよ」
それだけを、京はやけにきっぱり言い捨てた。小雪が言葉を詰まらせる。京もやはり、その一瞬を見逃さなかった。切りあげるなら今だ。
「悪い、この話はまた今度にしよう。今は狩野が優先事項だろ? 宇崎部長殿のご機嫌もこれ以上傾けるとまずそうだしな」
そのご機嫌とやらを傾けた張本人が少しも悪びれず笑う。小雪は頷かなかった。
関係ないよ──小雪には── そう言われた気がした。気付かない程度に、しかし強固に壁を作られた気がした。否、おそらくその壁は、常に二人の間にあったものだった。そしてそれは常に、京が作っていたものだった。
小雪は、廊下の少し先で待つ京を追いこして会議室の扉を開けた。ロの字型に組まれた長机、上座に当たる奥の席に宇崎一人が陣取っている。金熊は荒木・城戸組と同じ辺に座っていた。彼らの向かいの席、入り口にほど近いところにシンが座っている。手招きされて、小雪は静かに腰を下ろした。空気を読むやら読まないやら京が最後に入室、軽く会釈して入り口付近の席に落ちついた。
「今後は監視のターゲットを絞る。主犯格と見なされる狩野製薬の専務、桜井誉。社長秘書、麻宮法香。それから最重要顧客のひとりであるK大大学病院教授、根津幹也及びその周辺。以上を徹底追跡する」
会議ははじまりの号令どころか合図さえなく唐突に始められた。保安課一同には顔を見合わせている猶予も与えられない、宇崎は蛇のような視線で皆を牽制していた。
「藤和支社は狩野側を担当することになる。本社保安課から派遣される人員の補佐として動いてもらう。道案内と連絡役に努めてくれればいい」
《つまりパシリ》
シンが資料の端に走り書きするのを京は見逃さなかった。折りたたみテーブルの下でシンの膝を小突く。といった一連の動きが、向かいの席の金熊や荒木には丸見えだったりしたが、幸い宇崎の眼には入らなかったようだ。彼は確認をとることもなく機械のように淡々と説明を続ける。
「桜井誉の監視組には城戸、桃山。麻宮法香の監視組には白姫。残りはここに待機し必要な資料、情報の整理と作成を行ってもらう」
《つまり雑用?》
京が立ちあがった。シンの走り書きを咎めるためでは、無論ない。向かいの席に陣取っている穏健派が目を白黒させていた。
「白姫は……まだ無理です。俺と桃山のバディに就いて仕事を教えています」
「問題ない。本社のサポートだ、道案内ができないわけじゃないだろう」
視界の隅で金熊と荒木がウェーブをしていた。しかも必死の形相で。おそらくそれは「座れ!」の合図なのだろうが、京は一瞥しただけで彼らを視界の外に追い出した。
「『本社のサポート』が道案内で終わった試しがないから言ってるんです」
京の視界の外では、やはり金熊と荒木が息の合わないパントマイムを繰り広げていた。銘銘頭を抱えているところだけは一致しているが、金熊は机上に突っ伏、荒木は歯を食いしばって天井を見た。ちなみに二人と同じ机に並んでいる城戸は、他人行儀に目を伏せていた。
「こちらの指示通りに動け、という命令がそこまで難解か? 人選は適当だ、君のようにいちいち下手な判断をしてくれる者を現場に配置したくない」
宇崎の口調は、はじめから一定でただ淡々としていた。神経質そうな薄い唇が、何か決められた記号を発するかのように早口に動く。対して、京は言葉を厳選していた。これでも、である。その証拠に逐一、奥歯を噛みしめる音が小さく鳴っていた。
「浦島!」
厳選した次の一言は金熊の怒声によって遮られた。黙った京をきつく睨みつけた後、金熊は宇崎に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! 私の指導不足でございます! 浦島には私の方から言って聞かせますので、今回はどうかご容赦くださいっ」
「課長、宇崎部長」
小雪が静かに立った。
「私の方は何も問題ありません。命令通り、麻宮法香の監視組をサポートします」
「……だ、そうだ。金熊課長、この寸劇のような展開はそろそろ終わりにしたいのだが? 直に監視チームも到着する」
「はっ。では先にお出迎え準備を。白姫君、青山君に言ってお茶の準備をっ」
まるで接待だな──その準備に取り掛かるためちらほら席を立ち始める保安課の面々。それに紛れて、京もまた会議室を出た。ばたつき始めた給湯室を見向きもせずに、真っ直ぐ自分のデスクに向かう。椅子にかけっぱなしにしてあった上着──袖部分はブレイクスプラウトの手枷代わりにしていたため見事にしわになっている──を無造作に抱えた。再び保安課を出て、廊下へ。次に向かうのは会議室ではない。
「京っ、どこ行くんだよ」
真っ直ぐエレベーターを目指す京の背中に、シンが慌てて声をかけた。
「は? 帰るんだよ、やってられるか」
京が片眉を上げてあまりにもあっけらかんと答えるものだから、シンもうっかり納得しかけた。踵を返して数秒、いやいやいやと自分に突っ込みを入れたときには既にエレベーターの箱は京を乗せて階下に下っていた。
(うっわー……めんどくさ。これって見なかったことにしたらまずいのかなー)
シンは彼を止めなかったことではなく、呼びとめてしまったことを後悔した。後悔は丹念にしたが急いで次のエレベーターに乗り込むような真似はしない。自分が血相を変えて京を引き留めに行く展開など、それこそ安いドラマのようだ。想像しただけで悪寒が走る。ここはふさわしいキャストに友情出演していただくのがベターだろうと、モバイルの短縮ボタンを押した。
エレベーターが一階に到着するなり、京はわき目も振らず早足にエントランスを目指した。外出のときも退社のときも、普段なら受付の女性に必ず一声かけて出て行くのだが、今日ばかりは素通りさせてもらう。彼女の視線が一瞬こちらに向けられたような気もした。
究極にイライラしながら自動ドアをこじあけるようにして外へ出る。待機中の社用車の列も素通りしていく、そこへ立ちはだかる腕組みをした女を目にして、京の苛立ちは更に増幅されたようだった。
「あーら偶然。外出かしら? 昼食時間はとっくに過ぎてますけど?」
「乙女……なんでいるんだよ」
これも普段なら呆れ気味に言う台詞だ。今は苛立ちだけが先行する。思わず眉を顰めて乙女を睨みつけた。
「その一、宇崎サンに盾ついて弾かれて、居心地悪くなったから逃げてきた。その二、擁護したはずの小雪ちゃんからあっさり裏切られて傷ついたから逃げてきた。その三、その他」
乙女は選択肢だけを並べた。遠からず近からずというか、全部と言えば全部というか、とにかく完全に見当はずれではないから困る。
京は小さく嘆息して今度はゆっくりと歩を進めた。
「その三。悪いけどお前に構ってる時間ないんだ、こっちはこっちで調べたいことができた」
シンの野郎── 一番面倒なのを召喚してくれたものだ。苛立ちが加速する。記憶に焼き付いているロイド型サングラスの男の顔、背格好、レンズの奥の見えないはずの瞳、無意味な会話をしているだけで薄れていく気がする。ここは強行突破することに決めた。
「早退届」
乙女は動じず慌てず、去っていく京の背中に単語だけを投げかけた。シンに言われて来た割にはたいして引き留める気もないらしい。有難いやら切ないやら。
「休暇願とまとめて明日出すっ」
京はもう振り返らなった。そのまま歩幅を更に広げてカンパニーの敷地から脱出する。後には乙女の小さな溜息と開閉する自動ドアの音だけが虚しく鳴っていた。

その目に、どこかで出会っているような気がした。反抗期真っ只中の中学生スプラウトだったか──違う。5年間付き合った彼女の二股が判明した友人だったか──それも違う。
瞼を閉じると、どういうわけかそれがすんなり思い出せた。
そう遠くない過去に、鏡の中にその目の少年は住んでいた。朝も昼も夜も、その少年の目は暗く淀んでいて、一切の光を受け付けなかった。その目が映す世界もまた、当然のように暗かった。故障したレンズで撮影した、明度の低い写真のようだった。
鏡に映った自らの淀んだ目を見た時、京はまず自分がブレイクしたのではないかと疑った。そしてすぐにそうではないことを確信した。ブレイクスプラウト特有の、断続的な濁りとは明らかに違う。それは終わりのない闇だけを映すレンズだった。
もう鏡の中にその少年は住んでいない。朝起きて身だしなみを整えるときも、あくびをしながらパトロールをし社用車の窓ガラスに映ったときも、誰かの瞳に映り込む自分の瞳を見たときも、京の世界には色があるし光がある。
(眩しいな……)
瞼の裏が必要以上に明るい。無意識に眉を潜めた。ごく近くで、リズム良く林檎の皮を剥く音がする。空間に響いているのはどうやらその音だけのようだった。静かで心地よい。
京は虚ろな意識で、何とか状況を整理した。穂高央太との大立ち回りが決着を迎えたところまでは覚えている。その後デスクで一休みしようとして、誰それの悲鳴や怒声が聞こえてきて、記憶終了。ということは、ここはおそらく医務室かどこかで林檎を剥いてくれているのは彼女しかいない。
「小雪ぃ!」
「何だ、気が付いたか。いきなり起き上がるなよ、手元が狂う」
勢いをつけて上半身を起こすと、そこには絶望が待っていた。眉間に深い皺を刻んだ金熊と、クオリティの高いうさぎさん林檎が同時に京の視界に割り込んでくる。とりあえずやるべきことは、目を逸らすことか。
「課長、なんでここに」
「なんでって、お前が派手にぶっ倒れたからだろう。……泣くなよ、気持ち悪い」
泣きたくもなる。派手に倒れたなら、何故起きた瞬間に心配顔の同僚や部下に囲まれていないのだ。金熊の顰めつらにオプションがうさぎさん林檎ではやりきれない。悲嘆に暮れながら、ついでに辺りをぐるりと一瞥した。I-システム課の一画にある医務室に居ることは間違いなさそうだ。特に寝心地の良くないベッドに、京は頭をかきながら座りなおした。
金熊は納得がいかないように小首を傾げて、形の整ったうさぎさん林檎をフォークごと京に差し出す。京は黙ってそれを受け取った。
「穂高央太、どうなりました」
「お引き取りいただいたよ。天野由衣子ちゃんも迎えに来たしな。まぁいろいろ誤魔化して、厳重注意で済むようにしといたから」
「相変わらずだなー……」
「お前がそういう方向に持っていったんだろうが」
「あれ、そうでしたっけ?」
京の白々しい笑みに、金熊は歯ぐきをむき出しにして対抗したかと思うとあっさり席を立った。
「えー。課長、行っちゃうんですかぁ。俺一人をここに残してー」
「京介」
京の笑みが消える。金熊が自分の座っていたパイプ椅子に、茶封筒を置いた。乙女が持ってきたものだ。金熊がこれを持っているというこは、無論中身を検めているはずだ。京は黙って金熊を見上げた。
「あの事件に関して、お前が独自に動くことに今さら苦言を呈するつもりはない。ただ、焦りすぎるな。必要なところはちゃんと周りを頼れ、いいな」
一瞬、返す言葉を考えた。しかしすぐに思い直した。
「分かってますって。了解」
京と金熊、各々思うところは別にあるが同時に苦笑を洩らした。金熊はそれ以上何も言わなかったし、京も特に補足をしなかった。
金熊が退室してから京はのそのそと手を伸ばし、その封筒を手に取った。中は数十枚の写真だ。この手の資料は定期的に乙女から手渡される。中身を引き出そうとし、すぐに止めた。熱は引いたのか気分は悪くないが、とにかく何か気だるさが残っていた。
天井を見上げながらそのまま仰向けに寝転んだ。
「思い出は……ヤワじゃない」
乙女の口癖を、いつしか自分の口癖のように口ずさむようになっていた。彼女の考え方には共感できるところがいくつもあって、それはセイバーズとしての京を何度か救ってきたし、支えてもきた。バディを組んでいたころもそうだったし、今もそれは変わらない。
「ヤワじゃないから、困るんだよな」
体力の回復を図るため、再び瞼を閉じた。すぐに睡魔はやってきて、京を深い眠りの世界へいざなってくれる。意識が墜ちる瞬間、京はまた、あの目をした少年に出会ってしまった。絶望という名の淀みを持ったその少年はまだ、瞼の裏に息を殺して住んでいた。

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翌朝、噂は瞬く間に藤和支社内に広がった。何の噂かと言えば「浦島がついに本社の役員にキれたらしい」という本体にオプションで素敵な尾ひれがついたものである。「その場でセイバーズバッジを投げつけたらしい」だとか「宇崎の胸座に掴みかかったらしい」だとかはまだ良い方で、究極は「浦島はブレイクしかかっている」だとかの根も葉もないものだった。
当然それらは保安課長である金熊の耳にも届く。弁解しようにも、当の浦島京介が定時に出社しないのだからどうしようもない。金熊は自分のデスクで、渋ガキでも食べたように口元を歪め、見かねたみちるが淹れてくれた渋めのお茶をちびちびとすすっていた。斜め前のデスクでは同じく荒木が緑茶をすすっている。保安課内に残っているのは金熊と荒木、そしてみちるだけだった。ほとんど無音の静寂の室内で、時折ステイプラーの「カチン」という音が鳴る。
「青山君。宇崎部長にもお茶を……いや、珈琲か。珈琲にしよう」
「あ、先ほどお出ししました。どちらかお伺いしていなかったので、とりあえずお水と珈琲と」
カチン。カチン。カチン──
「ん、あ、そうか。さすが青山君。……荒木、お前はここに居ていいのか」
「いいみたいですよ。横にいるよりも、こいつをさっさと仕上げてほしいみたいです」
カチン──言いながら荒木がリズム良くステイプラーで資料をとめていく。その隣、城戸のデスクの上には絶妙なバランスで資料が積み上げられていた。本日の彼らの主な業務は、とにかくこのエッフェル塔(資料の山)を午後の会議に間に合うようにバッタ綴じしていくことである。外線が遮断されているため、みちるもこの業務を手伝っている。荒木とみちる、交互にステイプラーの音を響かせていた。
「俺も……そいつを手伝おう」
緑茶を飲みほして、金熊がおもむろに腰をあげた。見向きもせず荒木が一蹴する。
「勘弁してくださいよ課長。やることないからって俺の今日の仕事を取り上げんでください。なんなら隣の様子見に行ったらどうです」
「お前なあ~、藤和支社保安課を統べる主任ともあろうもんが資料作成に没頭してどうすんだっ。奥さんが見たら泣くぞ!」
荒木は反論せず半眼でひたすら内職作業を続ける。藤和支社保安課を統べているのは紛れもなく課長の金熊である。そういう類の突っ込みすらもはや面倒くさい。ステイプラーの簡素な音は、それだけで場をお粗末なものに変えていた。
作戦は既に始まっている。城戸とシンはこちらには出社することなく、本社の人間たちと現地で合流。そのまま監視と追跡に当たっている。小雪も同様だ。彼らの、といってもメインは本社の人間になるが報告やら情報やらは無線で逐一、宇崎の元へ集約されている。つまりこの、保安課を出て廊下を跨いだ先にある応接室改め「なんちゃって作戦本部」へ本作戦の全ての情報が集まっていることになる。
「……隣の様子を見てくる。荒木、お前も終わったらこっちに来い」
「~~了解」
げんなりした顔で、手元だけはリズミカルに。保安課を出ていく金熊と溜息のタイミングがもろにかぶった。
『対象が環状線から安出線に乗り換えます。11号車後方の乗車……9号、10号に分かれて監視を続けます』
ノックは控えた。応接室のドアを開けるとすぐに無線による報告が耳に入る。
「了解。くれぐれも同じ車両に乗り合わせるな。発車直前の降車に注意しろ」
歯切れの良い返事が二つ聞こえた。ひとつは小雪のものだ。狩野製薬社長秘書・麻宮法香の追跡は本社保安課所属の職員と小雪のバディで行われている。少人数というか、実質二人だ。これには金熊もいささか面食らったところがある。京が知ったら眩暈を起こしたかもしれない。
「宇崎部長。今のは、麻宮側ですかね」
わかりきったことを聞くなとでも言うように、宇崎は一瞬視線をこちらに向けただけだった。金熊は素知らぬ顔で長机のの角を挟んで、隣に腰かける。
(安出線ということは……もううちの管轄から外れるな。平日の真昼間に、あんな片田舎に何の用があるのか)
安出線は郊外に続く路線だ。終点間際にもなればベッドタウンどろこか田園地帯になる。とてもじゃないが社長秘書が自ら出向くような場所には思えない。臭いと言えばとんでもなく臭く、罠だと言われればそうでもあるように思えた。材料がないにも関わらず、考察する時間だけは大量にある。
「失礼します」
荒木が入室してきた。先刻は緩みきっていたネクタイの結び目が、心なしか上方へ押し上げられている。彼が後ろ手にドアを閉めた、その刹那。
『宇崎部長! 狩野本社側に動きがありましたぁ! 応答願います!』
スピーカーが音割れを起こすほどの声量だった。宇崎は一瞬眉を顰めただけで、すぐに何事もなかったかのように卓上マイクを自分の口元に引き寄せた。ちなみに金熊と荒木は揃って耳を塞いでいる。
「報告しろ」
『桜井が死亡しました! 何者かによって狙撃された模様! 全職員現場に向かいます!」
宇崎の蛇のような眼に初めて動揺の色が宿った。何故今、この段階で最重要参考人が死ぬ必要があるのか。
「口封じ、ってこと、ですかね」
唖然として入り口付近に立ったままだった荒木が、途切れ途切れに口にする。ということは黒幕は別にいる。それは果たして狙撃犯とイコールで結ばれるのか。判断は瞬時に行わねばならない。
「全員聞こえるか。桜井誉が死んだ、何者かの狙撃によるものらしい。よって、今から全ての本社職員は現場の狩野ビルに急行、但し白姫はそのまま麻宮を追え」
「……宇崎部長、その指示は」
横から口を出そうとする金熊を、宇崎は片手で制す。
「聞こえたか、白姫」
しばらく間が合った。
『……了解しました。このまま麻宮を追います』
間はあったが、毅然とした口調で返答はなされた。何か言いたげな金熊に対して、宇崎は右腕を差し向けたままだ。
「密に報告を入れろ。指示は追ってだす、自ら判断はするな」
『了解』
今度は間髪入れず返事があった。それを受けて宇崎はようやくマイクから体を離す。金熊に向けられていたストップバー代わりの右腕もようやく解除された。
「宇崎部長、今の命令は白姫には荷が重すぎます。ご存知の通り彼女はまだ新人で……」
「藤和支社は、女性職員をお姫様か何かと勘違いしているんじゃないか」
「……は?」
宇崎の口から「お姫様」などというメルヘンな単語が飛び出したことに、そして明らかに皮肉を言われていることに動揺して、金熊は思わず言葉を詰まらせた。
「能力がある者はフルに使う。男も女も、新人もベテランも関係ない。もっと言えばスタンダードかスプラウトかもだ。彼女もセイバーズ保安課の職員ならわきまえているはずだ」
正論だ、そしてどこか高尚でもある。金熊は反論できずそのまま押し黙ってしまった。これ以上余計なことを言えば、それは小雪の能力を貶めることになるだろう。
金熊は宇崎に向かって黙って一礼すると、再び深く椅子に座りなおした。荒木に視線を送る。座りかけていた荒木がそれに気づいて一度退室した。金熊は、この視線にいくつかの保険をかけた。万が一は常に想定すべきだ。宇崎にとっての万が一と、藤和支社保安課にとっての万が一はおそらく同じレベルにはない。
(白姫君は確かに稀にみる逸材だ)
それくらいのことはこの半年で十分に察している。元来ある能力に加え、呑みこみが早く真面目で勉強家だ。しかしそれは育て方を間違えれば全て短所になるような代物でもあった。だから浦島京介の下に就けた。奴なら彼女に、柔軟な思考と精神を無意識にたたきこむだろうと踏んだ。金熊の計らいは順調に実を結んでいたと言える。しかしそれでも、小雪には絶対的に不足しているものがあった。
(こんなところで一足飛びに経験値を増やす必要はないんだ。単独で行動させれば、どうしたって必ず『判断』は必要になる。宇崎さん、あんたは果たしてそれが分かってんのか……)
金熊は静かなままの無線受信器のスピーカーを見つめた。次にこれが唸りを上げたときが、「判断」のときだ。宇崎の、金熊の、そして小雪の思いは、全てこの仰々しい大型のスピーカーに託されていた。

小雪が覚えている限りでは、これは京の言葉だった。よし子(仮)の自殺未遂事件の際に、屋上で口にした言葉。乙女がかつて央太に言ったそれとほとんど同じ内容だ。偶然とは思えない。であるならば、もとは乙女の持論なのだろうか。それとも二人の間の、共通理解なのだろうか。
乙女はいつの間にか腕組みをして楽な姿勢で立っていた。小指を耳の穴に差し込んで一気に引き抜くと、ふっと軽く息をふきかける。
「……という説教が、央太くんにどれだけ理解できたかはさておき。まあ、君の努力が由衣子ちゃんの努力に遠く及ばないことだけは確かね。日記の存在は知ってる? 由衣子ちゃんが、手術前につけていた日記、というか記録帳」
央太は一度だけ小さくかぶりを振った。
「君の名前は報告書には記載されてない。私が君のことを知っていたのは、そのノートに、君の名前がびっしり書かれていたからよ。彼女の、君との思い出の全てがそのノートには記されてあった。……術後の自分のために書いておくんだって話してくれたわ」
「知らない、俺は。そんなの」
「あらそう。見たくないものほど、わざわざ目を凝らさないと見えないようになってんのよ、世の中は」
小雪に続いて乙女までもが、やけに冷たく言い放つ。彼女たちは忘れていた。完全に、視界から彼の存在を抹消していた。見たくないものは目を凝らさないと見えないようになっている──二人にとってそれは今、キング・オブ・役立たずと化した京の存在だった。
「由衣子ちゃんはさ、選んだんだよ。ちゃんと」
瀕死の人間が今わの際に出す、しゃがれきった声だった。京の顔色は、発熱の赤から血の気の失せた青、そして白へと変わり、今はもう古墳から出土された土偶の色と化している。
「君に二度と会えない道よりも、どんな形でももう一度会える道を」
「……うるさい」
「“二度と会えない道”を進むしかなかったスプラウトを、俺は知ってる。どちらか一人がその道を歩めばもう一人もそっちにいくしかない。……そっちを選んで由衣子ちゃんを巻き込んでいるのはお前の方だろ」
「うるっせぇんだよ、でたらめ言うな! 都合いいことばっか並べて、あの時も、今も! もう騙されない! 俺は絶対にセイバーズなんか信じない!」
央太はゴミでも放り投げるかのように、京を前方に突き飛ばした。京の体力はもともとゼロに近かったが、長時間ヘッドロックをかけられていたこともあり、いよいよ底をついたようだ。へなへなと倒れこむ他術が無い。央太が鬼気迫る表情で懐に腕を突っ込むのが見えた。
「シン! 小雪!」
一番手っ取り早い指示を床に向かって叫ぶ。名前を呼べば、おそらくそうしてくれるだろうと踏んだ。床に転がりながらも何とか振り向くと、例の筒状のブツが高らかに宙を舞っていた。視界の中央では戦乙女が、美しきおみ足を150度近く上方へ突き出している。
「京! 生きてる?」
シンが寄って来た。
「いや、違うだろ……」
「は、何が。抜群のコンビネーションでしょ」
シンが荒っぽく京の体を引きずり起こす。こうじゃない。こんなはずじゃなかった。
「逆だろ……普通! 俺を介抱するのは小雪の役目で、“あれ”をやるのがお前の役目だろ!」
京が口元を引きつらせながら指さしたのは、腕拉ぎ逆十字固めを見事に決められて悶絶する央太の姿だ。当然、決めているのは小雪ということになる。
「いや。僕、ああいう荒っぽいのはちょっと」
遠くを見るような虚ろな目で、その光景をぼかそうとするシン。視界は誤魔化せても、央太の断末魔は否応なしに全員の鼓膜を震わせていた。
「おーい、携帯回収! 誰か警察やさんに連絡してー」
「その前にオペ課に事情説明してこい。青山くん、内線つなげて」
「あ、金熊課長。そう言えば私こないだの報告書をもらいに来たんでした。ちょっぱやでもらえます?」
職員それぞれが、断末魔を聞きながらも歪んだデスクや、散乱した書類を片づけ始める。冷静なのか鈍感なのか、はたまた肝が据わっているのか、央太には気にしている余裕はなかった。
京が千鳥足で再び央太の前に向き直る。視線だけで、小雪にそろそろ解放するようにと指示を出した。正直、真っ直ぐに立っているのが困難だ。床が揺れているのか、天井が揺れているのか、安定しない足場に合わせて京もふらふらと体を揺らした。ただし視線にだけは、全精神力を集結させる。央太の目を射抜くよう努めた。
「スプラウトの心は“ここ”にあるとでも思ってんのか?」
アカンベーをする。無論、目的は彼を小馬鹿にするためではない。スプラウトの証、命の代名詞であるアイを確認させるためだ。央太に目立った反応はない。
「無くなったものは一から作ればいい。央太クンが覚えているなら、知っているなら、何も問題ないはずだろ。思い出ってのは……記憶ほどヤワじゃない」
もう一度、その言葉を口にした。正しい意図が伝わるように。央太は少しだけ顔をあげた。そして少しだけ、奥歯を噛んだ。
「……うるせぇ」
「どうするかは、自由だけどな」
京はいつも通りのしまりのない笑みを浮かべると、まだ歪んだままの自分のデスクに腰を落ち着け──
「うわっ! 京!」
「何やってんだっ。担架持って来い、担架!」
──ようとしてそのまま、そこらじゅうのものをなぎ倒しながら大往生した。図らずとも自身の予言通りとなったわけである。うず高く積み上げていた書類の山が、時間差で落ちてきた。
「何やってんだか。目立とうとするからよ」
乙女は興味薄にその場を立ち去ろうとする。本来の目的であった報告書を手に入れたのだ、この面倒極まりない現場に長居する理由はない。
「お、乙女さんっ」
小雪は呼びなれない名を、何とか口にして呼びとめた。こう呼ばないと乙女は振り向かない。
「用が済んだから課に戻るわ。あとよろしく」
「あの……」
「何か、訊きたいことがある? それは、私に?」
小雪は無意識に口をつぐんだ。その理由を瞬時に考える。おそらく、乙女の切り返しが的を射ていたせいだ。
「いえ。違う、と思います」
「あら、そ? じゃ、それは本人に訊くといいわ。そうそう、小雪ちゃんの啖呵も蹴りもなかなか良かったわよ」
乙女は悪戯っぽく笑うと後ろ手を振りながら保安課を後にした。当然、片づけと事後処理は放棄だ。あちこちで鳴り響く電話のベルと、金熊と荒木の怒声とで課内は一気に騒がしくなった。いつの間に招集されたのか、システム課の連中が何やら文句を言いながら京が横たわった担架を運び出していく。城戸とシンが、央太の身柄を拘束して引き渡しの準備をし始める。
隔離されていた空間が息を吹き返す。止まっていた時間が動き出す。そんなふうに息苦しかった間も、時計の針だけは容赦なく動いていた。短い昼休みがやがて終わる。


Message to Kinshiros Steeler Page

一体誰が元凶で、事態がここまで収束不能に膨れ上がったのか──。
浦島京介を始めとするスプラウトセイバーズ藤和支社保安課のメンバーは、さして広くもない課内にひしめき合って、揃いもそろって微動だにできずにいた。許されるのは、固唾をのむことくらいである。とりわけ京は、しきりにそればかりを繰り返していた。
「指一本でも動かしてみろ……こいつの頭から脳みそ引き摺りだしてやる……!」
京の寝癖頭を押さえつけて、男はサバイバル用の折りたたみナイフを突き付けていた。男は、というにはいささか幼さの残った顔立ちだった。しかし少年は、と言うにはその目はあまりにも淀んで見えた。
京は自身を人質にとられながらも「いやいや、俺の頭の中からは脳みそは出ないから」だとかの的確かつどうでもよいつっこみをかかさなかった。無論、胸中での話だ。実際は、ナイフの刃先と男の顔との間で視線を泳がせながら、思いきり歯をがちがち鳴らしている。そして時折、恨みがかった目を、一向に進む気配のない「だるまさんが転んだ」状態の同僚たちへ向ける。皆、冷や汗を流しながら神妙そうな顔つきをつくっていた。
京には分かる。連中はこの表情の裏で、そろそろあくびをもらしはじめている。荒木と城戸は、先刻から見えない位置で互いの肘を小突き合っているし、シンは振動し続けるモバイルが気がかりでジャケットの裏ポケットを気にしてばかりいる。極めつけはこの女だ。
「はーー……」
法務課主任、辰宮乙女はくっきりと縦じわの刻まれた眉間をほぐしながら、これでもかというほどオーバーに溜息をついた。悪びれもせず。
「何だよ、それ……。くだらないって、言いたいわけ」
「あら、意外に察しがいいじゃない」
(お~と~めぇぇぇぇ~……!)
膠着状態は打破したいが、荒療治すぎる。京は口パクで懸命に訴えたが、乙女の視界には入っていないようだ。入っていたとしても餌を催促する金魚が口をぱくぱくさせている程度にしか映っていないだろう。
冷たい汗で、京の背中はぐっしょり濡れていた。血の気は当に引いている。朦朧とする意識を繋ぎとめたのは、何かが切れる不吉な音だった。
「お前らの、せいだろ?」
切れたのは、かろうじてつなぎとめていた男の理性だ。
「お前らのせいで全部無くなったんだろ! 今までの分も、これからの分も、幸せ全部お前らが奪ったんだろうが! ……返せよ。二人分、死んで返せ!」
男の意識が京を離れ、京に突き付けていたナイフを離れ、乙女の冷めた眼に吸い込まれていくのが分かった。それでも京はしっかりと羽交い絞めにされたままだったから、一気に形勢逆転とはいかない。薄れゆく意識の中で、京はただひたすらに「刺さないでください」と小さく呟くだけだった。

HOLOHOLO160 まあそう言われればそうなんだが。こりゃまいったなあ…


「駄目です……っ、つながりません」
スプラウトセイバーズ藤和支社保安課、横の即席作戦本部。みちるが受話器を耳に当てたままかぶりを振った。眉尻を下げる彼女とは対照的に、宇崎は眉根を寄せて遺憾を顕わにする。
「あれほど報告を怠るなと、念を押したにも関わらずこのざまか……!」
みちるは聞こえないふりをして、再びリダイヤルボタンを押した。先刻からディスプレイに流れつづけているのは小雪の社用ケイタイの番号だ。そして、みちるの耳に届くのは先刻から同じ「電源が切られているか、電波の届かないところにいる」旨の女性の冷たい音声である。
(せめて浦島くんが居てくれたら……)
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか、諦めたようにかぶりを振る金熊の姿がみちるの視界に映った。顔色が悪い。ふと視線をあげると隣の電話の受話器を持ちあげたまま頭をかきむしる荒木がいた。怒りをこめて受話器を投げ置く。
「ああっ、もういい! 俺が出る! 宇崎部長、構いませんね? システム課も何人か──」
「馬鹿を言うな。これ以上無駄なことに人手は割けない」
「はい? いや、おっしゃいますけど、白姫はうちの大事な戦力で……」
「何度も同じことを言わせるな。戦力なら戦力らしい働きをさせろ! この状況下で荷物になる奴はここには必要ない!」
荒木は何度か言葉を遮られた挙句、そのまま開いた口がふさがらないようだった。代わりにみちるが席を立つ。素知らぬ顔、聞こえないふり、それらが限界に達したようで沈痛な面持ちのまま部屋を出た。感情的になってはいけない局面だ、それくらいは分かる。自らを制そうと誰もいない保安課のドアを開けた。
「……え」
誰もいない、はずだった。それだから、みちるは珍しく溜息全開でドアを開けたのだから。
「あーらら。どうしたの、みちるさん。この世の終わりみたいな顔しちゃって」
場違いにゆるい声で場違いな笑顔を振りまいて、場違いな男が課長席の前に突っ立っていた。
場違いもここまでくると一周回って救世主だ。
「浦島くんこそどうしてっ」
「あー、俺は昨日出しそびれた早退届とこの先の有休願をわざわざ出しにねー」
「じゃなかった! そんなのどうでもいいの!」
聞かれたから答えたのに、どうでもいいとはあんまりだ。みちるに言われると何故か二倍傷つく。苦笑いで取り繕おうとしていると、みちるが駆け寄ってきて京の二の腕をすがるように掴んだ。
「……みちるさん、そんなに俺のこと心配して……」
「そうじゃなくて! お願い浦島くん、何とかして小雪ちゃんを助けて……!」
京の腕を掴んだみちるの両手は、かすかに震えていた。それでもできるだけ簡潔に冷静に、状況を伝えた。みるみるうちに京の顔色が変わる。それに気づいてみちるは思わず手を離した。ありていに言えば、別人のようだった。少なくともみちるの知っている浦島京介とはかけ離れた人物のように思えた。
京は話もそこそこに、みちるの肩をたたくと無言のまま保安課を後にした。向かう先は決まっている。廊下の突き当たり、作戦本部のドアを開けるとそのまま反対側の壁にたたきつけた。
騒然としていた場は、その音を合図として一瞬にして静まり返った。置物のように静止した職員たちの間をすり抜け一直線に宇崎を目指す。
「浦島っ、お前何を」
フリーズしていた職員の中で、いち早く解凍されたらしい金熊が立ちはだかろうとするも時すでに遅し。京は宇崎のシャツの襟を力任せに鷲掴みにしていた。十八番の罵詈雑言も吐く暇なく、宇崎はうめき声をあげる。京と宇崎の身長差だ、宇崎はつま先立ちでかろうじて気道を確保している状態だった。
「浦島、貴様ぁ……」
「よせ! 浦島、手を離さんか!」
金熊が後ろから羽交い絞めにしようとするも歯が立たず、荒木が遅ればせながら参戦。が、京はあろうことか直属上司群を振り払って、宇崎をデスクの端に追い詰めた。
「……あんたにとって部下は、使い捨ての駒かなんかなのか」
「つけあがるな……! セイバーズは、組織だ。組織に於いて代替の効かない人間など、ただの一人もありはしない」
宇崎は常に正論を述べる。現実をつきつける。それを恐ろしく冷静に受け止めて上へのし上がった人間だ。彼は何一つ間違ったことを言ってはいない、京も当然それを理解していた。
腰にまきついた金熊と、それをサポートする荒木、二人の懸命な努力によりようやく京を宇崎からひっぺ返すことに成功する。宇崎はデスクに倒れかかるように崩れ、咳を繰り返した。誰も駆けよらない。京は真っ直ぐに宇崎の目を見た。
「スプラウトセイバーズは、スプラウトの命と尊厳を守る組織だ。あんたのその正論の下で、俺は働けない」
京は再び、置物と化した社員たちに見向きもせず出口に向かう。一分一秒が惜しかった。
「京介!」
それだから金熊の呼びかけにも、半ば鬱陶しそうに肩越しに振り返っただけだ。
「使用許可を出す、持って行け!」
何を、という目的語は示されなかった。しかし京は瞬時にその意味を理解し、頷いてその場を後にした。
「金熊課長……浦島、いや藤和支社はこんなことをしてただで済むと思うのか……!」
襟元を正しながら宇崎が固定電話に手を伸ばす。受話器を掴んだところで、その手を金熊が勢いよく押さえこんだ。
「何の真似だ!」
「いや、あれ、おかしいな。手が勝手に……はははは」
金熊の突然の暴挙に、隣で見ていた荒木はまたも開いた口がふさがらないようだった。冷や汗を流しながらも金熊は力を緩めない。
「あいつの好きにやらせてやっちゃーくれませんかね」
「お前ら、やってることの意味がわかってるのか」
不毛なやりとりに嫌気がさしたのか、宇崎が早々に身を引いた。金熊は、安堵か決意か、ひとつ大きく嘆息して短い黙想をした。
「わかってますよ、私も長年この組織でやってきた人間ですから」
スーツの襟からセイバーズバッジを外し、机上に転がした。この光景をまざまざと見せられた荒木とみちるは、固唾をのんで見守るほかない。あの部下にして、この上司ありだ。
「私の首ひとつで、まぁ何とかなるレベルでしょう。そういうわけで、たった今からあんたの口出しは一切受けん」
荒木に、今後の身の振り方を考える猶予は与えられなかった。かわいい二人の子どもたちの笑顔を思い浮かべることも、美しくも恐ろしい妻への言い訳を考えることも後回しだ。全ての疲労を凝縮させた溜息を床に向かって吐いた。
「荒木! 城戸とシンに状況確認してすぐ樫ノ屋に向かわせろ、っと、拳銃携帯許可を出す。一旦呼び戻せっ。それから青山くん、システム課に応援要請。機材とセットで動ける奴を廻してもらって白姫くんのアイ反応を探索させてくれ」
荒木は諦めたように、みちるはふっきれたように、それぞれ了承して動きだす。金熊本人は目の前の受話器をとって慣れた手つきで内線番号を押した。
「金熊だ。辰宮くん、支給ヘリを手配してほしい。柳下たちを乗せて樫ノ屋に飛んでくれ。付随する連絡は君に任せてかまわんか」
水を得た魚のように、あるいはモノクロ写真に色を添えたように、金熊率いる保安課が息を吹き返す。その息吹は課の垣根を超え、システム課、法務課、普段は三階のセキュリティドアの向こうから一歩も出てこないオペレーション課まで突き動かす。
「駄目だ駄目だ! 直行するな、拳銃携帯許可が出てるから一度こっちに……ああ! ちょっとそこの! モニターは一台でかいやつに取っ替えてっ」
携帯片手に廊下を猛スピードで突き進みながら、荒木が目に着いたシステム課に指示を出す。オペレーション課の精鋭を動員してきたみちるも、機器の接続(手慣れたものだ)から状況説明まで完璧にこなした。
「宇崎部長」
本社の職員たちを引き連れてエレベーターホールに向かう宇崎を、金熊が呼びとめた。
「本社に戻り、桜井殺害の件に当たる。……この件の君たちの処分は後日、事が済んでからだ」
「はっ、ありがとうございます」
閉まるエレベーターの扉に向かって、金熊は深々と敬礼した。扉が閉まりきっても暫くの間その態勢を保つ。それから思いだしたように作戦本部に戻り、デスクに転がしたままだったセイバーズバッジをつまむといそいそとスーツの襟につけ直した。
「課長ー! 城戸とシンが戻りましたっ」
「今行く! そのまま銃器庫に行かせろ!」
指揮を執るのにセイバーズバッジ無しというわけにはいかないだろう、金熊は声を張りながら胸中で苦笑した。これが最後の指揮になるのかもしれない、それでも一向に構わないと思った。
「いいか皆! 全力セイブだ! 何が何でも白姫君を救出し必ずここへ連れ帰る。藤和支社……スプラウトセイバーズの誇りに懸けて!」
皆各々の作業をしながらも、腹の底から了解の声を張り上げた。セイバーズの職員、とりわけ藤和支社の職員は多かれ少なかれこの手の展開が好きだ。ドラマや映画さながらに、ピンチやクライマックスに一致団結する仲間たち──大抵のフィクションはここからハッピーエンドに向かう。それを現実にできるか否かは、彼らの力量と運にかかっている気がした。

4 【なぁ】チームさにわのドキドキ本丸探索【スケベしようや】結の上

こうして一泊というか半泊というか、慌ただしい慰安旅行は終章を迎えた。行きと違って帰りのバスの中は嘘のように静かだ。五月蠅い連中を含めたほとんどの者が、ここぞとばかりに居眠りを決め込んでいるのが主な要因である。豆塚のあげる高いびきに耳を塞ぎさえすれば、非常に快適な静寂の空間だった。
カシャッ──そこへ響く、モバイルのシャッター音。シンが座席から身を乗り出して小雪の寝顔をおさめたところだった。起きていた社員は全員目を見張る。
「小雪さんの寝顔ー。500円でデータ送信受付中ー」
ガタガタと音を立ててシンの席に群がり始めるシステム課社員一同。荒木が迷惑そうに顰めつらを晒し、その横で城戸が笑う。いつもの平和な光景だ。しかしいつもとは決定的に違う。一番先に他者を押しのけてきそうな男が、今回に限っては悠長にふんぞり返って座っているではないか。それも締まりのない笑みをにやにやと浮かべて。
「めずらしいね。いいの?」
シンがわざわざモバイル画面の中にいる、あどけない寝顔の小雪をちらつかせてきた。
「んー? べーつにー」
京は一瞬だけそれを視界にいれたが、すぐにまた思い出し笑いに没頭した。
「気持ち悪ー。今に始まったことじゃないけど」
座席の肘置きにひたすら積み上げられる500円硬貨を、シンはてきぱきと回収してきぱきとデータを送信した。
京は思い出し笑いを噛みしめながら、あるひとつの確信を持ち始めていた。この寝顔は500円払わずとも近い将来独り占めできる気がする。昨晩のやりとりを思えば──当然、京は小雪の最後の台詞をこそこそ息を殺して聞いている。あとからあとからこみ上げてくる笑いに顔全体を緩ませて、京はひたすら根拠のない幸せな時間を抱きしめた。